解体
解体(かいたい)とは、ばらばらにすること。この言葉の使い方によってさまざまな意味を持つ。
建築分野における解体とは、しばしば建設という言葉と対にされ、建築物を壊すことを意味する。建築物の老朽化のためや、災害等で著しく損傷し修理が困難な場合、何らかの理由で建物の使用目的が全くなくなった場合、あるいはその建物などが道路拡張などの行政による命令などで解体される。また重要建造物を移設する場合など、復元することを前提に一旦バラバラにする行程を指すこともある。 解体の方法はいくつかあり、重機(パワーショベルにアタッチメントを着け油圧クラッシャーなど)で少しずつ壊していく方法(機械壊しなど)が一般的である。 爆薬を使い一瞬で解体する爆破解体は日本国内では規制が厳しいために行われることは少ないが、アメリカ合衆国などではビルなどの大型建築物を解体する際によく使われる方法である。 解体工事業を営むには、建設業法の「家屋解体業」・「土木工事業」・「建築工事業」・「とび・土工工事業」の許可を受けている場合を除き、建設工事に係る資材の再資源化等に関する法律に基づき都道府県知事の登録を受ける必要がある。
解体屋
解体屋(かいたいや)は、自動車解体業や建築解体業など、各種解体業者の通称のこと。何らかの理由により廃車となった自動車(オートバイ)から金属マテリアル毎に分類しての金属販売や、程度が良く再利用に耐えうると判断した部品を取り外し回収する業者。利用価値がある部品は全て取り外す。社外品マフラー、社外品ホイール、オーディオ&ビデオ機器、エンジンなどには確立されたアフターマーケットが存在するので、ここに放出、転売することになる。その他のドア、パネルなどの外装部品、足回りやエアコン、補機類等(場合によって書類付きの車体丸ごと)あらゆる中古パーツを倉庫に整理保管し、要求に応じて出荷販売する。取引相手は国内のユーザーだけとは限らず、部品単体・カットボディー・車両丸ごとが国境を越えた貿易の対象となることもある。(これは部品を取り外したあとのスクラップ=金属資源に対しても言えることである。) 最近ではディーラー系修理工場でも顧客の要望に応じて、これらの解体業者から程度の良い中古部品を仕入れて修理することもある。中古部品ネットワークも整備され、今では個人、業者問わず中古部品を全国から探す事ができる。 回収の手間に見合わない小物部品はそのままシャーシに取り付けたまま破砕業者に引き渡されることも多い。現車状態で車輌を保管している場合、欲しい部品は自分で取り外すか、手間賃を払って取り外して貰うことになる。 使える部品を外したシャーシ(モノコック)だけを自動車ガラなどと言い、解体屋の敷地内に積み上げられる。積み上げられた自動車ガラは自動車リサイクル法で定められた適切な期間内に破砕業者に引き渡される。その時の金属資源の買い取りレートによって破砕業者への引渡しは有償もしくは逆有償になる。 なお、今日では自動車リサイクル法の施行に伴い、今までの青空解体は禁止され、屋根付きの舗装した場所(室内)で、油水分分離槽などの設備、管轄庁への届出をした、自動車リサイクルシステム[1]の電子マニフェスト制度を使用できる業者に限り自動車リサイクル法指定業者として認めているが、設備を導入するコストを考え廃業する解体屋も出てきている。 最近では複数の解体屋が集まってグループ化し、グループ内の在庫を簡単に検索する事が出来るシステムを導入して中古部品を全国に向けて販売する事も多い。代表的な中古部品グループとしてはNGPやパーツステーションNET、JAPRAなどのグループがある。 海外ではAuto SalvageやAuto Wrecking、Auto Wreckerなどの屋号を掲げている場合が多く、近年では日本国内で部品入手が難しくなった国産車の部品入手手段として海外の解体業者が利用される場合がある。
神戸
海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深の有る扇状の入り江部に発展した理想的な港湾・神戸港を有する日本を代表する港町である。 市域中央に横たわる六甲山地の山上の高原一帯は日本における別荘・リゾート等の発祥地として有名であり、六甲北麓の有馬温泉は日本三古湯の一つとして古来より名高い。 「神戸」という地名は、現在の三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封戸の集落(神戸「かんべ」)であったことに由来する。西国街道の宿場町であり北前船の出発地の一つでもあった兵庫津(ひょうごのつ)に近く、廻船問屋が軒を並べていた神戸村を指していた。神戸三社(神戸三大神社)をはじめとする市内・国内にある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わり、前述の有馬温泉や神封戸の形成も市名の由来に関係している。 海運においても古くから興り、近代には世界の市場にその名を知られるほどに隆盛していった。以降も貿易・鉄鋼・造船・機械・製造・ゴム・真珠加工・観光等の産業を中心に発展、ファッション・医療・食料品などの産業も近年は盛んである。 兵庫県南部地震で市街地と港は甚大な被害を受けたが、国内3番目の市営空港として神戸空港が開港するなど復興を遂げつつある。 2007年度、フォーブスの「世界でもっとも綺麗な都市トップ25」で25位に選ばれた。ちなみに1位はカルガリーで、アジアでは神戸を含む日本の3都市(勝山9位、大牟田25位)が選ばれている。 2008年に、日本ではもちろんの事、アジア内で初めてデザイン都市としてユネスコに認定された。
遣隋使の時代には、既に港は開かれていたが、平清盛により経が島の近くに都である福原京が計画された前後に貿易の拠点として整備され「大輪田泊(おおわだのとまり)」と呼ばれたことがその発展の始まりとされる。その後、明治維新に至るまでは「兵庫津」と呼ばれ、京・大坂の外港・経由地として栄えた。 江戸時代に、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同明石市)とをつなぐ宿場として兵庫津が存在した。兵庫津は自治組織として港町として扱われた浜方と、宿場町を司る岡方とが存在した。本陣は浜方と岡方の双方に存在したが、江戸時代中期以降は浜方の本陣の利用を希望する大名家が漸増した。 条約による1868年の兵庫開港の際、神戸村が事実上の開港場となり、外国人居留地や港が造られ、1879年に勅令により「神戸港」となる。その後、日清戦争・第一次世界大戦を経て上海・香港・シンガポールをしのぐ規模となり、1990年代初期までの間、東洋最大の港として発展を続けた。一方、港と共に造船・鉄鋼・機械を中心とした工業も発達し、阪神工業地帯の中核を担う日本有数の重工業都市に成長する。県名の由来にもなっている「兵庫」と神戸とは元来別々の町村であったが、市域の拡大によって一つの都市としてまとまっていった。 太平洋戦争末期、他の諸都市同様に米軍の重要な戦略目標で有った神戸はB29による度重なる空襲を受け、当時の市街地・工業施設・港湾施設の大半を破壊・焼失し、多くの犠牲者を出した。(神戸大空襲) 戦後の高度経済成長期には、市街後背部の山地より削り取った土砂を用いてポートアイランドを代表とする人工島を臨海部に埋立造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備すると共に、埋立用土砂採取後の丘陵地を幾つもの住宅地・産業団地として開発した。この一連の施策は「山、海へ行く」と呼ばれ、都市インフラの拡充・整備が大きく進むことになった。1981年のポートアイランド第一期竣工時には、地方博ブームの先駆けとなる「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)」を開催して成功させるなど、これらに代表される都市経営手法は、「株式会社神戸市」と称され全国の市町村から自治体経営の手本とされた。 1995年に阪神・淡路大震災が発生し、神戸は甚大な被害を受けた。震災での被害による港湾機能の麻痺や、震災以前からの上海・香港・高雄・釜山などに代表されるアジア諸港の追い上げによって、国際貿易港としての相対的地位はかつてと比べると低下した。しかし、近年の震災復興により国際貿易港としての地位を回復する傾向にあり、日本を代表する港湾都市の一つとして発展を続けている。 また、人口においても震災直後に7%あまり減少したものの、新長田駅前・JR六甲道駅前での震災復興再開発事業やポートアイランド二期事業・神戸医療産業都市構想などの事業によって呼び戻されて2004年11月には震災前を超えるまでに回復した。2007年3月に実施された国勢調査の速報値では152万9187人となっていて過去最大を更新している(全国の市で第5位)。なかでも、都心への回帰現象がみられる中央区や大阪へのベッドタウン化が進む東灘区や灘区において高い増加率が目立っている。遣隋使の時代には、既に港は開かれていたが、平清盛により経が島の近くに都である福原京が計画された前後に貿易の拠点として整備され「大輪田泊(おおわだのとまり)」と呼ばれたことがその発展の始まりとされる。その後、明治維新に至るまでは「兵庫津」と呼ばれ、京・大坂の外港・経由地として栄えた。 江戸時代に、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同明石市)とをつなぐ宿場として兵庫津が存在した。兵庫津は自治組織として港町として扱われた浜方と、宿場町を司る岡方とが存在した。本陣は浜方と岡方の双方に存在したが、江戸時代中期以降は浜方の本陣の利用を希望する大名家が漸増した。 条約による1868年の兵庫開港の際、神戸村が事実上の開港場となり、外国人居留地や港が造られ、1879年に勅令により「神戸港」となる。その後、日清戦争・第一次世界大戦を経て上海・香港・シンガポールをしのぐ規模となり、1990年代初期までの間、東洋最大の港として発展を続けた。一方、港と共に造船・鉄鋼・機械を中心とした工業も発達し、阪神工業地帯の中核を担う日本有数の重工業都市に成長する。県名の由来にもなっている「兵庫」と神戸とは元来別々の町村であったが、市域の拡大によって一つの都市としてまとまっていった。 太平洋戦争末期、他の諸都市同様に米軍の重要な戦略目標で有った神戸はB29による度重なる空襲を受け、当時の市街地・工業施設・港湾施設の大半を破壊・焼失し、多くの犠牲者を出した。(神戸大空襲) 戦後の高度経済成長期には、市街後背部の山地より削り取った土砂を用いてポートアイランドを代表とする人工島を臨海部に埋立造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備すると共に、埋立用土砂採取後の丘陵地を幾つもの住宅地・産業団地として開発した。この一連の施策は「山、海へ行く」と呼ばれ、都市インフラの拡充・整備が大きく進むことになった。1981年のポートアイランド第一期竣工時には、地方博ブームの先駆けとなる「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)」を開催して成功させるなど、これらに代表される都市経営手法は、「株式会社神戸市」と称され全国の市町村から自治体経営の手本とされた。 1995年に阪神・淡路大震災が発生し、神戸は甚大な被害を受けた。震災での被害による港湾機能の麻痺や、震災以前からの上海・香港・高雄・釜山などに代表されるアジア諸港の追い上げによって、国際貿易港としての相対的地位はかつてと比べると低下した。しかし、近年の震災復興により国際貿易港としての地位を回復する傾向にあり、日本を代表する港湾都市の一つとして発展を続けている。 また、人口においても震災直後に7%あまり減少したものの、新長田駅前・JR六甲道駅前での震災復興再開発事業やポートアイランド二期事業・神戸医療産業都市構想などの事業によって呼び戻されて2004年11月には震災前を超えるまでに回復した。2007年3月に実施された国勢調査の速報値では152万9187人となっていて過去最大を更新している(全国の市で第5位)。なかでも、都心への回帰現象がみられる中央区や大阪へのベッドタウン化が進む東灘区や灘区において高い増加率が目立っている。 <Wikipediaより>